キャパについて

キャパについて。 $$$$$ キューちゃん。
会員では、キャパについて色々と研究している人もありますが、こんな記事も参考になるかもね。?????

リチャード・ウィーラン
沢木耕太郎訳
キャパ「その青春・その死」

わたしのホームページのメイン・ページは 「ちょっとピンぼけ」と題している。だから、キャパのことを調べたい方が、時々キーワード検索で迷い込んできて、結果的に、何の得るものもないということで、ご迷惑をお掛けしている。ということで、何か少しでも、お役に立つ情報をということで、掲題の書籍に全面的に基づいて、キャパの生き方を年表形式にまとめてみた。

(2002-5-14作成)


西暦 年齢
1880 父デジェー・フリードマンが貧しいユダヤ商人の息子として、現在のルーマニアに生まれる。
1888 母ユリアンナ・ヘンリエッタ・ベルコヴィッチが、現在のスロヴァキアの東端に生まれる。
1910 父母が結婚。ペストのヴァーロシュハーズ街に婦人注文服のサロンを開業する。

1913 0 10月22日ブダペストのベスト側で生まれる。片方の手に小さな指が一本よぶんについていた。母はこれを「徴」と受け取った。氏名はエンドレ・エルネー・フリードマン。バンディと呼ばれる。
1914 1 (第一次世界大戦勃発)
1915 2
1916 3
1917 4
1918 5 弟コルネール(コーネル・キャパ)誕生。(オーストリア・ハンガリー帝国の崩壊)
1919 6 名門エヴァンゲリウス校に入学。カーロイ政権が倒れ、ハンガリー・ソヴィエト共和国を宣言したが、反動的なルーマニア軍がプダペストを占拠し、白色テロを開始。ユダヤ人もその対象となった。
1920 7
1921 8
1922 9
1923 10 男子校イムレ・マダーチュ・ギムナジウムに入校。
1924 11
1925 12 同じアパートに住む弁護士の娘、三歳年上のエーヴァ・ベシュニェーに関心を持つ。エーヴァはコダック・ブローニーで写真を撮ることに興味を持っており、バンディはその撮影について歩いた。
1926 13
1927 14
1928 15 エーヴァはブダペストの写真家ヨージェフ・ペーチのもとで学びはじめる。
1929 16 エーヴァは新しいローライフレックスを使って、石炭船から荷下ろしする港湾労働者、ブダペストの街中でベンチで横になっている極貧の男女……などを撮影。(10月ニューヨーク株式市場の崩壊)
ギムナジウムの第7学年になって、当時42歳の「ムンカケル」等を主宰するラヨシュ・カッシャークという社会主義的前衛芸術家と知り合い、影響を受ける。
1930 17 不況が進行し、ブダペストでゼネストが行われる。カッシャークも参加。バーンディもデモで負傷する。
1931 18 共産党活動の容疑で逮捕されるが、父親のコネで出獄する。7月12日、わずかな金を持たされ、家族と分かれて、鉄道でウイーンに向かい、数週間後にベルリンに辿り着き、亡命者としての生活を開始する。
ドイツ政治高等専門学校に入学するが、仕送りが無くなり、写真家になることを決意する。亡命活動家のジョルジ・ケペシュから6×6の折畳み式フォクトレンダーを無期限で借用。
1932 19 「その冬の初めはひどいものだった。」同じハンガリー出身のグットマンが経営する写真通信社「デフォト」の暗室係となるのは、31~32年にかけての冬と見られる。夏になると、公園のベンチで寝る生活となる。グットマンはバーンディの素質を見抜き、ライカを貸し与える。
11月にコペンハーゲンで開催されたトロッキーの講演会の演説写真をノーフラッシュのライカで撮り、<デア・ヴェルト・シュピーゲル>が一頁のすべてを使って掲載。
1933 20 ヒトラーが首相となり、ユダヤ人排斥が始まる。2月の国会議事堂の自作放火事件によって共産党を非合法化する。バーンディはウィーンに脱出。6月にブダペストの家族のもとに戻り、ヴェレシュ旅行社のカメラマンとなる。当時の写真は残っていない。9月、活動家チーキとともに、パリに脱出。この頃から、アンドレ・フリードマンと名乗る。借金、居候、万引き等。ポーランド出身の写真家ダヴィッド・シミン(シム)と知り合う。さらにシムの紹介でカルティエ・ブレッソンとも知り合い、仲間付き合いをする。
1934 21 2月に「フーク・ブロック通信社」の臨時雇いとなる。ブタペスト生まれで、すでに一流カメラマンとして活躍していたアンドレ・ケルテスの知遇を得て、仕事を回してもらう。シュタンニッツの「中央通信社」からサントロペ取材の仕事を請け負い、プラウベル・マキナを借りたが、現地で質入れして、さらに仕事もせず。9月モデル探しをして、ゲルダ・ポホリレスに出会い、恋人となる。雑誌<ヴュ>のザール取材のクレジット入り写真でデビューし、好評を得る。
1935 22 金のため、ナチス宣伝雑誌社「ウルシュタイン」の仕事を引き受ける。新品のライカを買い入れて、スペインに向かう。サンセバスチャン、マドリード、セビーリャでの、いくつかの取材写真が売れ、パリに戻る。ゲルダと暮らすようになる。「毎日新聞」のパリ支局の仕事を川添浩史と井上清一を通じて手に入れる。
1936 23 伝説を偽造してロバート・キャパを名乗るようになる。ゲルダも、岡本太郎から借りて、ゲルダ・タローと名乗る。主としてキャパはライカを使い、ゲルダはローライフレックスを使った。7月スペイン市民戦争勃発。9月、コルドバ戦線で「崩れ落ちる兵士」を撮影。9月23日発行の<ヴュ>に掲載され、衝撃を与えるが、後々まで、「やらせ写真」との疑念を持たれる。この後の一連の人民戦線の命がけの取材によって、スタイルを確立し、創刊されたばかりの<ライフ>にも紹介される。
1937 24 ルイ・アラゴンが主幹する<ス・ソワール>を中心に仕事。ゲルダは写真家としての自立を求める。人民軍兵士から「ラ・ペケーニャ・ルビーア」(可愛い赤毛ちゃん)と人気の高かったゲルダは、7月ブルネテの前線で、乗車した車が戦車に衝突され死亡。
1938 25 スペインから戻ったキャパは、1月、船で日中戦争の取材に向かう。漢口、徐州、西安等を移動。9月にパリに戻る。再びスペインに行く。
(写真は1936年発売ノコンタックスⅡ。レンズはゾナー50mm/f1.5に見える。)

1939 26 現代、最高の戦争写真家という評価が定着するが、共産党よりの姿勢のため、ドイツ軍のポーランド侵攻への取材の許可が出ず。撮影すべき戦場がなく、10月ニューヨーク行きの船に乗った。
1940 27 ライフのために、ニューヨーク等で撮影する。ビザが継続できず、ライフはキャパをメキシコ取材に送る。トロッキーの暗殺に遭遇するが、撮影はできなかった。ニューヨークに戻り、永住権を得る。
1941 28 ノルウェーの貨物船でリヴァプールに渡り、ロンドンや、フランス本土空襲を撮影。再びニューヨークに戻る。マーガレット・バーク=ホワイトがロシアから取材写真を送ってきており、キャパもロシアへの取材を希望したがヴィザを取ることができない。
1942 29 アメリカの大戦への参戦と、ハンガリーに対する連合国の宣戦布告によって、キャパは敵性外国人として扱われ、当時所持していたコンタックス2台、ローライフレックス1台、スビグラ1台を警察に取り上げられるが、コネで取り返す。退屈な仕事しかないなか、<コリアーズ>が特派員として雇い、ロンドンに渡る。爆撃機の機首にある、透明な銃座の中にいる射手を撮った印象的な写真は、表紙写真として印刷されたが、偶然にも機密であったノルデン爆撃照準器が写っていたため、すべて廃棄された。
1943 30 新しい恋人ピンキーに出会う。ようやく米軍の認可を得た正式の<コリアーズ>の特派員として、北アフリカ戦線に向かう。エル・ゲタールでパットン軍団と行動を共にする。さらにチェニス、シシリア、イタリア本土の前線を取材。途中で、<コリアーズ>の契約を解除され<ライフ>に鞍替え。
1944 31 「もしよい写真が撮れないとすれば、それは近寄り方が足りないからだ」というモットーに従って、第1歩兵師団第16連体第2大隊E中隊に従軍。オマハ海岸の「イージーレッド」に上陸。Dデイ(6月6日)である。
現像・乾燥のミスによって陸する最中にコンタックスで撮った二本のフィルムの中の72枚の画像のうち、11のカットだけが焼き付け可能だった。バイユー、シェルブール、サン・マロと従軍し、8月パリ開放を撮影。
1945 32 3月、ライン川に落下傘降下。4月、ライプツィヒで、ドイツ兵に狙撃され、ほとんど即死の状態の若い伍長を撮る。床に広がる血溜りが写っている恐怖に満ちた一連の写真を撮った。彼にとってその写真は、「崩れ落ちる兵士」で始まった、10年に及ぶ戦争の時代に終止符を打つものとなった。
イングリッド・バーグマンと恋愛。
1946 33 ハリウッドに出入する。
1947 34 カルティエ・ブレッソン、ジョージ・ロジャー、ダヴィッド・シムらと「マグナム」結成。スタインベックとロシアを取材。
1948 35 5月イスラエル国家樹立を取材。第一次中東戦争を取材。8月ゴルフ・ジュアンでピカソ一家を取材。
1949 36
1950 37 朝鮮戦争勃発。キャパは取材にいかない。
1951 38
1952 39
1953 40
1954 41 4月日本に向かい、三週間に渡り東京、京都、奈良、大阪、神戸、尼崎と足を伸ばし、行った先ではとりわけ子供にレンズを向けた。東京で、ライフからインドシナ取材の仕事を受ける。5月25日午後3時ドアイタンでヴェトミンの地雷を踏む。キャパは仰向けになってまだ息をしていた。左足はほぼ完全に吹き飛ばされ、胸がざっくりえぐれていた。コンタックスは左手に握られていたが、ニコンは爆風によって数フィート飛ばされていた。その日、マグナムのヴェルナー・ビショップもペルーで車の転落事故で死亡した。




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【カメラの触感】
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by tedukuricamera | 2009-04-30 13:21 | 情報 | Comments(3)
Commented by GuGuGammo at 2009-04-30 20:25 x
.。o○とても参考になる書き込み、有り難うございます。「ノルデン爆撃照準器」というところでとても懐かしい記憶が蘇りました。もちろん大戦中の飛行機乗りぢゃあありませんので、書物などからの知識ですが。「松本零士」の、コックピットシリーズにも出てくるのですが、「透明な銃座の中にいる射手を撮った印象的な写真」というくだりの、透明な銃座は、現在ではアクリル樹脂と呼ばれていますが、B29が日本上空を席巻していた当時には、有機ガラスと呼ばれていて、徳川無声の「夢声戦争日記」にも出てきたような記憶あり。匂いガラスというように、松本零士の作品にも出てきているんですが、アクリルを、セメントに擦りつけてそんなに匂いが立ちこめたかな? \(^o^)/
Commented by mimopowerOM-1 at 2009-05-01 01:25
射爆照準機と言えばレビ12Dですか。コックピットシリーズにも描かれてます。零戦の射爆照準機はフランスのOPLのコピーですね。OPLと言うとフォカのメーカーですな。
Commented by キューちゃん at 2009-05-01 08:45 x
私が少年飛行兵のころ、この風防ガラスの破片を磨いて時計のガラスにはめ込んだことがありましたが、その際ペーパー鑢で磨いていると、なんともいえない良い匂いがするのに気が付きました。これが匂いガラスといわれたんでしょうね。
良く考えてて見ると、今の強化ガラスのような立派なものではなくて、只単に飛行機の風除けだけのものだったのでしたね。時代の進歩とともに過去が懐かしく感じられたひと時でした。
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